東日本大震災と磯屋水産

震災直後に決めた覚悟

2011年3月11日。未曾有の大地震と大津波が気仙沼を襲いました。大きな揺れにただ事ではないことを察知し、すぐに事業所へ戻って、従業員を避難させました。会社の車のほとんどを漁協の屋上に避難させ、私自身も津波が気仙沼の町を飲み込んでいく様子を眺めていました。魚市場の近くにあった店舗は2階まで浸水し、南町にあった店舗はあとかたもなく流出していきました。

残った土地も全て地盤沈下しており、そう簡単には建物を再建できないことがわかりましたが、鰹の水揚げに合わせて6月には魚市場が再開される方針がわかると、地盤沈下してしまった店舗の土地は、すぐに自費で砂利を敷き詰めて出荷工場にすることを決めました。

もちろん、後々自治体の対応が決まれば強制撤去になるかもしれず、無駄になるかもしれないことはわかっていました。しかし、「行政に頼り、ただ待つ」ということだけは絶対にやりたくなかったのです。幸いにも震災前からスローフード推進の仲間と一緒に海と共に生きるリスクを検討し、保険も含めて対策を講じていたこともあり、再建に向けた一歩を踏み出す為の最低限の資金を確保することができました。

どんなにやせ我慢であっても自分の力で立ち上がらないと、胸を張って全国から命がけで訪れる漁師達を迎えられません。なぜならば、彼らは海の上で板子一枚の上で戦っているのですから。津波に負けた辛気くさい気仙沼なんかは絶対に見せられないのです。そして、絶対に海の近くで店を再建するという覚悟を決めました。

様々な人たちのつながりの中で

気仙沼港では、カツオ漁船の受け入れを水産業復興の第一歩とするべく、シーズンが始まる6月下旬までに当港の総延長1kmの水揚岸壁のうち200mに応急的なかさ上げが施行されました。6月23日に気仙沼市魚市場が再開され、同月28日に静岡県のカツオ巻き網漁船が入港し、震災後初の水揚げに漕ぎ着けました。復旧ままならない漁港に水揚げをしてくれた全国のカツオ漁船の船主方々の思いがあり、気仙沼は震災の年も生鮮カツオの水揚げ日本一を守ることができたのです。

一方でそんな全国から来てくれる漁師の皆様をちゃんともてなすことができない申し訳なさが日に日に強くなっていきました。全国から遠路はるばる来てくれた漁師の皆様を気仙沼の人間で温かく迎えられる場所を作りたいという気持ちから一つのアイデアが生まれました。海の近くにカフェや自転車屋を併設させた店舗を再建させるというアイデアです。

その想いを書いたスケッチが震災後に支援の為に気仙沼を含めた三陸沿岸を回っていた俳優の渡辺謙さんの目に留まり、海の前にみんなが集まれる場を作りたいという私たちの思いに賛同してくださいました。

私が購入した土地に建設されたカフェ兼イベントスペースは「K-port」と名付けられましたこのK-portの”K”には、いくつもの思いが込められています。”気仙沼”のK、”渡辺謙”のK、”絆”のK、”心”のKなどです。そして”port”には、”心の港”という思いが込められました。そうして発足したK-portの計画は、さまざまな方々の協力の下、着々と進んでいきました。建物の設計を担当してくださったのが、伊東豊雄先生。カフェメニューの監修をしているのが、フレンチで高名な三國清三シェフ。様々な方々が我々の思いに協力してくださいました。

震災直後から現在に至るまで、様々な方々の温かいご支援により、気仙沼の復興は一歩一歩進んでいるのです。

「変わるもの」と「変わらないもの」

震災後に沢山の方々が訪れてくださり、気仙沼は変わりました。これまででは考えられなかったような人たちが気仙沼を訪れ、様々な新しい取り組みが各所で進められています。でも、変わらない、変えてはいけないものがあります。

それは、気仙沼に住む人たちが気仙沼という町に誇りを持ち、美味しい食事で外から来た人たちのもてなしをするという港町の心意気です。皆様の温かい気持ちに応える為にも、必ず自分たちの力で立ち上がり、気仙沼の魅力を楽しんでもらうことで恩返しをする。全国から気仙沼に来てくれた人たちに、「気仙沼の魚は最高だ」と言ってもらいたい。

私たちはその想いを胸に、これからも海と共に生きていくのです。

磯屋水産 安藤竜司